目 次

■ 在青島日本国総領事館からのおしらせ
■ 日本人学校からのおしらせ
■ 婦人会からのおしらせ
■ 特集:「黄島特集」
■ 商工会だより
■ 日本人会だより・地域版 〜城陽区〜
■ 日本人会成立20周年記念行事ご報告 〜後編〜
■ チンタオ友の輪 〜広げよう!楽しもう!チンタオ友の輪〜
■ 住めば都よ、一度はおいで! 〜タイ・ソンクラー県〜
■ 青島・老房子と日本人 〜青島日本高等女学校〜
■ 会長はシェフ 〜スモールキッチンでも作れる簡単レシピ〜
■ だーぐぅ爺のひとりごと 〜当地での「不祝儀」見聞録(その1)〜■ 浮山情的書評 〜貴妃は毒殺されたか〜
新コーナー「やっぱり何々が好き!」 〜ワタリガニ編〜
■ チンタオ写真館
■ げっちんアンケート
■ イベントカレンダー

 

 

NEWS


在青島日本国総領事館からのお知らせ

総領事館代表電話:0532-8090-0001
総領事館ホームページ http://www.qingdao.cn.emb-japan.go.jp 



〜最近の日中関係の動きに係る注意喚起〜


 
最近の日中関係の状況に鑑み、引き続き、以下の諸点にご留意の上、ご自身の安全確保に十分ご注意下さい。

○外出する際には、周囲の状況に格別の注意を払い、広場など大勢の人が集まるよう    
な場所では特に注意する。
○公衆の場での言動や態度に注意する。
○日本人同士で集団で騒ぐ等の目立った刺激的な行為は慎む。
○在中国日本国大使館及び総領事館、外務省ホームページ等をこまめにチェックする。

 なお、事件に巻き込まれたり関連情報を得た場合は当館にご連絡願います。緊急電話は24時間対応可能です。また、総領事館あて「在留届」の提出や「メールマガジン」の登録もお願いします。詳細は、総領事館ホームページをご覧下さい。

 

〜総領事館の後援名義の付与について〜


 10月13日、「世界の中心で、愛をさけぶ」等の作品で知られる片山恭一氏が、「純愛文学の可能性−日本人の生死観」と題した講演会を中国海洋大学で開催しました(国際交流基金主催、在青島日本国総領事館後援)。
また、10月16日、山口銀行と青島市人民政府対外友好協会の主催で「第9回山口銀行杯日本語弁論大会」が、府新大厦で開催されました(在青島日本国総領事館後援)。 
このように、総領事館では、山東省で開催される日本関連行事及び日中交流事業に対して、主催者からの要請に基づき一定の審査を経た上で、後援名義を付与しています。
詳細は、総領事館ホームページをご覧下さい。

 

 

 

 青島日本人学校からのお知らせ

http//www.qingdaojs.org/
 

小学部修学旅行

 9月28日から小6が修学旅行に行ってきました。中学部と同様、山東省内を巡る旅行で、泰山などの世界遺産や、省都の済南、凧で有名な潍坊などをまわってきました。山東省の魅力や歴史を十分に知ることができただけでなく、いろいろな体験もすることができ、とても充実した内容になりました。最終日は楽しみにしていた遊園地で友達との絆を深めることができ、忘れられない思い出をつくることができた修学旅行となりました。

 

  

サツマイモ ほり〜

 9月30日に小学部1年から3年生が5月に即墨市にある農場に植えたサツマイモの収穫に行ってきました。各自移植ごてを持って土の中のサツマイモと格闘・・・「やったー!サツマイモとれたー!」と大歓声!夏の天候不順で、少し小さめのサツマイモが多かったようですが、それでも自分たちで植えたサツマイモを収穫する喜びはひとしおでした。とってきたサツマイモは後日、学校や家庭でふかしたりして、みんなで美味しくいただきました。自然の恵みとお世話になった農場の方々に感謝、感謝です。

 

学習発表

 

   

 11月7日土曜日に青島日本人学校の学習発表会が行われました。今年は、小学部による絵本や音楽、言葉、青島の歴史を題材した劇の他、バリアフリーのテーマや自分たちの農業体験をもとにした劇など、各学年とも趣向を凝らした発表が行われました。中学部は3チームに分かれて創作ダンスを発表、各チームとも個性溢れるダンスを披露しました。また、小学部、中学部ともに音楽発表会があり、歌や楽器演奏など日ごろの練習の成果を発表しました。学習発表会は日本人学校の人気行事として、今年も多くの保護者や観客が生徒たちの熱演を楽しみました。

 

 

 

 

婦人会からのおしらせ

〜定例会開催:小龍包の包み方体験〜

  

 10月26日に婦人会の定例会が開催されました。今回は百麗広場にオープンした世界10大レストランとしても名高い「鼎泰豊」にて、昼食懇親会の他に小籠包作り方を体験。お店で実際に包んでいるスタッフの方々から丁寧な指導を受け、和気藹々と学んだ後は自分で作ったアツアツできたての小籠包を満喫しました。
定例会報告詳細、お問い合わせはチンタオWEB
(http://qingdao-web.com/)をご覧下さい。

 

〜チャリティークリスマス会開催と協賛のお願い〜

 来月7日、昨年度開催致しました「青島日本人会婦人会チャリティークリスマス会」を今年も開催致します。本年度も日本人会会員企業様からのご協賛品、及び婦人会会員からの寄付品をバザー形式で各婦人会会員が購入し、売上金をユニセフ中国、または紅十字に全額寄付する予定です。
つきましては、各会員企業様のご協賛をお願い申し上げます。チャリティバザーへご協賛頂ける
お品がございましたら、下記メールアドレス、又は日本人会までご連絡下さい。また、クリスマス会にご参加希望、新規入会希望のご婦人の方もご連絡お待ちしています。
qdhujinkai@yahoo.co.jp (青島日本人会婦人会 担当:西本、中村)

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月刊青島11月号 特集

「黄島特集」

 今月の特集は、来年のトンネル開通を目前に控えて、今後ますます発展予定の黄島をご紹介。チンタオからフェリーでわずか20分とすごく近いけれど、意外と行ったことがない、という方もいるはず。「黄島ってどんなとこ?」と改めてご紹介するとともに、チンタオと同じく20数年前から日本企業の進出している黄島の当時の様子や黄島ライフの移り変わりについてお伝えします。

    


〜黄島の基礎知識〜

黄島開発区
 
膠州湾の南側湾口部に位置し、北側の湾口部青島とは直線距離で10キロ弱。黄島と言われているが、港湾部は黄島地区と薛家岛地区に別れており、青島からのフェリーもそれぞれ別で結ばれている。
1985年に着工以前は漁村であったが、その後、港湾施設、保税区を備えた経済技術開発区として整備、多くの外国企業を誘致し今に至っている。現在の人口は約60万人。そのうち戸籍人口は30万人強。日系進出企業はXX社を数える。投資環境では中国内でトップ5内にあると総合評価されている。


アクセス
 
天候にもよるが湾岸の高速道路を利用し青島空港から1時間半弱、市内からフェリーを利用しても同様の時間がかかるが、膠州湾横断大橋と海底トンネルの開通により大幅に便利になる事が期待されている。

生活環境
 
市内にはショッピングセンター、映画館、ホテルといった施設が複数あり、日本食レストランも多数ある。外国人向けの賃貸物件も増えてきている。病院も複数あるが、現在郊外に大規模な総合病院施設が建設途中であり今後充実すると思われる。市内にはバス網が張り巡らされ、またタクシーも郊外まで流しで走っている事もあり比較的利用しやすい。
 
見どころ
 
薛家岛地区の東シナ海側には金沙滩,银沙滩といったビーチがあり夏場は多くの観光客で賑わう。後背にそびえる山々の尾根を利用した斉の国時代の長城の跡が市内にも若干残っている。小珠山风景区は自然動物公園となっておりパンダもいる。
(但し、現在は病気療養中のためパンダ不在。)

 



〜某黄島駐在員のつぶやき〜

 着任早々に思った事、それは「黄島は青島じゃないじゃん」であった。東京ディズニーランドや新東京国際空港が東京に無いのと同様で、青島市経済技術開発区という住所はある意味で詐称に近いと考えるのは自分だけであろうか?まず空港から遠い。青島との間は指呼の距離、めちゃ近いのだが海で隔てられている。フェリーは強風や霧ですぐ欠航。(過去何度となく青島からの帰りがけに欠航を喰らい、泣く泣く高額な白タクに見ず知らずの乗客とギュウギュウ詰めの乗り合いで帰り着いた事か)陸伝いの高速道路も春や秋は霧でしょっちゅう閉鎖するというていたらくでまるで陸の孤島である。あと少しでトンネルや橋でつながるとは言え、海上の橋は霧や強風で閉鎖になるのは今と変わらないであろうし、期待のトンネルも開通後の出入り口(特に青島側)の交通渋滞を想像する事はもはや恐怖ですらある。

 とまあ悪い事ばかり並べ立てたが、今を遡る事ほんの10年前、この地は寒風吹きすさぶ漁村だったらしい。その頃この地に赴任されてきた方々の努力や苦労を思えば、ここ数年で着任してきた若僧が黄島に文句を言うのはおこがましいであろう。この10年間の当地の発展というのは驚愕に値する。正直なところ、街中にはジャスコや他のショッピングセンター、ホテルもあり、また近隣にはゴルフ場もある。日本料理屋や日式カラオケ店さえあり、まあ欲張らなければ普通の生活にはまったく困らない。さらに車の絶対数量が少ない為か朝夕の渋滞もたいしたことないのは有難い事である。天気の良い時に青島渡るフェリーから眺める光景などは気持ちが良い事このうえ無い。余談ではあるがこのフェリー元々は瀬戸内海の宇高連絡船(宇野−高松間)で活躍していた船であるとの事。そういわれれば船内の作りなど何か懐かしい雰囲気も感じる。

 近郊には金沙滩、銀沙滩といったビーチもあり、そういった海岸沿いにはレストランが軒を連ね夏場などは大勢の観光客で賑わう。喧噪がお嫌いな向きには胶南方面に少し車を走らせればまだ何もない砂浜が延々と広がる光景に出くわす。山に向かえば広大な自然動物園もある。無論現在もあちこちに高層アパートや道路、建物等が建設中なので、鄙びた感じの良い所もドンドン減っていくのであろうが、現時点では全くもって捨てたものではないのである。

 とまあそんなこんなで縁あってこの黄島に駐在している自分としては、今後の黄島と各社様のますますの発展を切に願う次第なのである。


 


〜座談会・黄島の20年をみつめて〜

 上述の黄島駐在員のつぶやきを聞き、黄島での日系企業と黄島ライフについて興味を持った編集部。そこで、黄島に拠点を置く日系企業の中で最も早い時期から進出し、その移り変わりを誰よりも深く知る黄島日本人会の重鎮お三方、三美電機有限公司・黒井前総経理(10月にご帰国)、大阪源有限公司・田中総経理、青島寿技研商貿有限公司・折居総経理にお話を伺いました。

来中経緯と黄島を選んだ理由

編集部:皆さんの黄島にいらした経緯を教えて下さい。

田中氏:
 
私はニクソンショック、オイルショックを乗り来るため1985年の夏初めて中国に来ました。青島郊外の南泉というところに電気炉で鍍金線を作る工場があったので88年から準備をし、90年に開発区に工場が完成してスタートしました。

黒井氏:
 私たちはWiiや電気機器のリモコンなどを製造する工場を開発区に建てるため、92年の2月に来中しました。工場スタート後、97年に一度帰国したのですが、再び呼ばれて赴任した99年から今日まで11年、その前と合わせて黄島駐在は17年になります。

折居氏:
 1993年4月、初めて中国に来ました。当時、中国政府の要請を受けた民間企業による経済協力を行うため、松下グループがその一端を担い、私たちはビデオデッキのスイッチなどの電子部品の製造する合弁工場をつくるために来ました。

編集部:なぜ黄島を選んだのですか?

折居氏:
 北京、上海と候補となるような部品作りの工場を探しましたが、我々と同じような部品を作っている会社があると聞いて、その会社と提携しようという話になり、それが
黄島にあった「電子元件六廠」でした。この工場に決めた理由は、当時中国で急速に進められていた民営化にどう対応したらいいのか、パナソニックと合弁することで新たな道を探りたい、というパートナーの考えがしっかりしていたからです。

黒井氏:
 私のところは人をいっぱい必要とする、労働集約型の工場ですから。人を集めやすい、土地もある、人件費も安い、という条件が揃っていたため黄島に決めました。青島ならもっと楽しい駐在ライフだったでしょうけどね。でも黄島に決めたおかげで人も思うように集めることができました。一方、生活面は本当に苦労しました。日本から来た経理さんたちもびっくりするほどの不便さで、アリサンホテルというホテルがありましたが外国人用に作っていない。朝晩同じ食事が出されて、毎日シャコを食べましたよ。その後、自社で宿舎を作りました。

田中氏:
 私も88年に日本から来た時は青島市内でタクシーをチャーターして、黄島に来る、帰るの毎日でしたね。その当時は青島市内でも日本人は約36名、黄島に住んでいたのは2名だったかな。フェリーで黄島に行く場合には風や霧が強いと船が出ないから仕事に行けなくて困りました。

 

当時を振り返ってみて

編集部:当時を振り返って思い出されるのはどんなことですか?

折居氏:
 私はそれまで中国に来たことは一度も無かったので、直行便も無いし、中国語も話せないから「大変な国やなあ。」と思いました。北京では、馬車からベンツまで走っていて驚いたけれど、青島に着いた時はもう夜中。フェリーに乗って黄島に初めて行った時は、季節労働者がいっぱい乗っていて、周りにヒマワリの殻がいっぱい落ちていたのを思い出します。

黒井氏:
 当時、黄島の道路といえば主要道路は香江路の一つだけ。その道路周辺以外はまったくの漁村、農村でした。だけど黄島に来た私たち日系企業に対して政府は協力的で、とても親切にしてもらいました。

田中氏:
 本当に。黄島の管理委員会の皆さんの態度はよかったですね。昔は会社が困っていると、よく助けてくれました。

折居氏:
 私たちの場合、合弁契約を結ぶのに中国語でのやりとりが難しく、スムーズに行かずに交渉に1年くらいかかりました。中国での交渉はまるで観音扉を開けるようで、開けても開けても次の扉が奥にあるみたい。契約の際には山口銀行に相談したり、労働条件の項目ではミツミさんに同業者として参考にさせてもらったりしました。おかげで93年に無事契約締結、94年の春から本格的操業開始して、私自身も出張から定住に替えました。黄島大酒店というホテルに住み始めたのですが、お湯は時間制限、水はさびて赤っぽい、冬場は寒くてたまらない、と驚くことばかり。

黒井氏:
 長期出張者はみるみる痩せていきましたよね。食事が毎日まん頭とスープでは食べられない。レトルトのカレーライスを作ってあげたら、泣いて食べましたよ。

田中氏:
 私は好きなパンが食べたいけど、パン屋さんも無い。だから日本からパン焼き器を持って来ました。

折居氏:
 出張者が持って来てくれた竹輪にきゅうりを入れたり、フライパンで玉子焼きを「日本食だ!」って楽しんだり、金沙滩で魚をさばいてもらって、日本から持って来たしょうゆで味わったり。ささやかな喜びを楽しんでいましたね。

田中氏:
 黄島で仕事を終えて青島に帰った後、毎日夜6時に海天の日本料理屋か中華料理屋で集まって、色々と情報交換をしたり。。。今思えばいい思い出ですね。黄島から帰って来るにも泥道を走ってタクシーで3時間はかかりました。ある日、途中で小休止した場所で降りて見上げた満天の星空が今でも忘れられません。

黒井氏:
 タクシーは車の床下に穴が空いてるような車もありましたね。雨が降っても使いすぎでワイパーが利かなくて、運転手が手で拭いていました。ワーカーにお給料をあげた時には、「私はお金を貯めて自転車が買いたい。それが夢だ。」って話していたのが印象的でした。事務所で電話機の使い方を知らなくて、逆さに持っている子もいましたよ。

田中氏:
 あの頃のワーカーの子たちは本当に純だったなあ。カメラも触ったことがなくて、出張者の36枚撮りのフィルムがあっという間に無くなっていました。それに覚えていますか?青島とは違う黄島専用の兌換券と人民元。米ドル、日本円、黄島用兌換券、青島用兌換券、黄島用人民元、青島用人民元と小切手を6冊持ち歩かなきゃいけなくて、財布がパンパンだった。兌換券は95年くらいまで使っていましたよね。

黒井氏:
 そうそう。兌換券の方が換金率がいいから歓迎されて、ガイドさんや通訳さんが換えたがっていましたよ。その頃に比べると、黄島の人たちの生活もずいぶんと変わりましたね。地元のデパートでもいい物を置くようになって、ワイシャツが1000円以上、革靴が2000円なんて、昔は無かった。女の子の洋服もカラフルになりましたね。そうやって物価がどんどん高くなるとお給料も昔のまま、っていう訳にもいかないけれど。

田中氏:
 日系企業が増えたのは92年のミツミさんが来てからかなあ。

黒井氏:
 私たちが来るまでは田中さんをはじめ3、4社ほどでしたよね。今では黄島地区では200社ほど登録されていて、昨年の忘年会では165名の方にご参加いただきました。ゴルフコンペでも10組、40人前後が集まります。

折居氏:
 94、95年頃の黄島は、ミツミさん、田中さん、ライオンさんとうちの4社をはじめとする10名くらいが何となくいつも集まっていて、春には中山公園にお花見に行ったり。何ていうか、“まとまり感”がありましたよね。2000年頃からブームではありませんが、日系企業が増えたなあ、と思いました。私は青島日本人会の副会長をしていたので、黄島でもお世話役をさせていただいていますが、黄島日本人会のイベントとして夏のバーベキューと冬の忘年会は参加者が多いですね



昔の休日の過ごし方と生活の飛躍的改善

編集部:休日はどんな風に過ごしていたのですか?

黒井氏:
 
日曜日のスケジュールはフェリーに乗って青島に行き、ランチに焼肉を食べて、それから海天ホテルでコーヒーを飲んで、中山路でブラブラ買い物をする。このお決まりのコースを、92年から3年か4年は毎週同じことを繰り返していましたね。

折居氏:
 そうそう。私も毎週末の海天ホテルに泊まるのが楽しみだったなあ。ホテルのお風呂に入って、日本のテレビが見れて、日本食が食べられる。黄島には無い楽しみを満喫していました。 黒井さんと同じく中山路の商店街をウロウロとしてました。

田中氏:
 私はよくクーラーボックスを持ってジャスコに買出し。それから海天ホテルでアイスクリームを食べました。アイスが食べられるのはあそこしか無かった。

黒井氏:
 生活が変わり始めたのは96年頃からかな。広厦ホテルや海都ホテルができて、朝食もビュッフェスタイルなど格段に良くなりましたね。

田中氏:
 それから清水屋さんが来て、待ちに待った日本料理店がようやく黄島にもできたことも大きな変化でした。

黒井氏:
 清水屋さんでは、皆で「これ作れ、あれ作れー!」ってわがままばかり言ってましたね。

折居氏:
 お客さんとは中華だけど、一人の時は日本料理が食べたくて自分で自炊したり、家内に料理の作り方を聞いたりしてました。日本食レストランが出来たのは本当に嬉しかった。出張者とホテルでインスタント味噌汁やお茶漬けを食べてまるでキャンプだねといっていたのを思い出します。またカラオケもロ−カルソングばかりで日本のVCDを持ち込んで仲間と楽しんだのも古い昔となりました。

黒井氏:
 それから数年前、近場に膠南の東方カントリーというゴルフ場が出来て、駐在員の息抜きができるようになって皆で喜びました。おにぎり持参で出かけてね、楽しかったなあ。ゴルフ場ができる前は、金沙滩での魚釣り。職員と一緒に行ってアイナメやカレイなどが釣っていました。

折居氏:
 ゴルフの他に最近ソフトボール同好会もできて、青島のチームと交流ゲームしよう、って話していますよ。それにしてもジャスコができてから、ここ5年くらいは青島に行かなくなりましたね。

田中氏:
 私も用事で青島に行った日は、市内から黄島に帰って来ると落ち着きます。昔はあんなに通ったのに、今ではほとんど行きません。

黒井氏:
 今、黄島に駐在する人は、昔に比べたら何の不自由も無いと言ってもいいですよ。


トンネル開通を目前にして

編集部:来年、黄島−青島間のトンネルが開通しますが、どう思われますか?

黒井氏:
 橋は霧がかかると通行止めになってしまいますから、トンネルが出来ればもっと安定した行き来ができるようになっていいと思います。でも黄島をベッドタウンに、っていう思惑や投資目的を背景に、不動産価格が急騰しました。以前は1平米3000〜5000元くらいだったのに、8000〜1万元に上がりました。

田中氏:
 金沙滩の方では、1平米2万元っていう物件もあるらしいですよ。そんな感覚、以前では考えられない。夏に金沙滩で行われるビーチ祭りでも入場券が1ヶ月分の賃金と同じだったり、物価とのバランスが崩れ始めていますね。でも、トンネルができてうれしいのは、青島市内の病院にすぐ行けるようになること。指先をケガしてもここだと切断されちゃうけど、401病院に行けばつなげてもらえたケースがありました。

折居氏:
 今後は黄島での家賃が高くなるだろうから、きっとお給料をもっとあげなきゃいけなくなるかもしれませんね。それからトンネルが出来て青島と黄島の間がより行き来しやすくなったら、青島日本人会の行事やゴルフコンペなど、黄島にもっと来て欲しいなあ。

 

黄島に来る人へのメッセージ

編集部:今後、黄島に来る人にメッセージをお願いします。

黒井氏:
 新たにメーカーが黄島に来た際に、挨拶に来られるところもあればそうではない会社もあります。地元で一緒にやる仲間として、最低限のルールは守ってやりましょう、っていうことはお願いしたいですね。

田中氏:
 昔は賃金やボーナスについてなど、みんなでどうしようかと相談し合ってましたよね。それに、新労働法が出たこの時分、よく勉強して出てこられた方がいい。私たちも3年間、日本と中国を行き来して準備して、会社を作りました。十分にこの国と人について勉強し、理解した上で来なければ、せっかく来ても失敗してしまうリスクが大きくなります。

黒井氏:
 生活は楽になったけど、工場管理は年々大変になっていますよね。中国の法規は守らなければならないし、日本企業だからコンプライアンスも守らなければいけない。法律対応だけでもてんてこ舞いです。

田中氏:
 日系企業は社会保険の負担も違う、残業手当の計算もしっかりやらなくちゃいけない。ローカル企業は抜け道を探せても、日本企業にはできません。様々な面で負担は大きくなっていますよね。それから荷物を載せた船が出る日に「2年前に成立した法律が今日から施行になった。」と急に出荷停止を言われることもあったり。。。どんな時でも急な対応ができるようにならないといけません。

黒井氏:
 私たちも「ここは住宅地にすることになったから。」と急に言われて、輸出加工区に移転することになったんですよ。政府が宿泊設備をつくると言ってくれていますけれど、とにかく一つ一つが交渉ごと。それを乗り越えてこそ、ですね。但し、うちの会社もフィリピン、タイ、中国国内に4ヶ所工場がありますが、青島の評判が一番です。近い、来やすい、労働力不足もまだうちでは無いから安定して仕事ができます。だから事業拡大してみようと思えます。例えば天津では、エンジニアなど職員の学歴ばかりが高くなって、一般ワーカーがいない、というアンバランスな状況です。ここではまだそうした問題は無く、職員とワーカーの両方を探すことができますからね。

折居氏:
 黄島の日系企業はまだ100社程度。なるべく多くの人に来て欲しいと思っています。しかし、開発区の土地はほとんど売れてしまったので、大きな工場を建てたいと思ったら今後は膠南や輸出加工区になると思います。それに確かに人も集まりにくくなってきています。単なる人件費が安いっていうだけではそう簡単に上手くいくもんじゃない。住宅付きで人を雇うとなると中小企業にとっては難しい環境になっています。しかし、中国文化は日本文化の原点ですし、私たちもできるだけの企業努力はしたいと思っています。

編集部:黄島の日系企業の歴史を知るお三方ならではの貴重なお話です。
    今日はお忙しい中、どうもありがとうございました。

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商工会だより

今月よりJETRO青島事務処のご協力を得て、
新コーナー「商工会だより」をスタートします。



〜最近の投資環境から〜(2010年11月)


【法の厳格化】
 適用対象や執行者による運用の差がなく、厳格に法が適用されるというのは、自由な経済活動における法のあるべき姿とされますが、中国では、法の未整備と運用の濫発が、問題とされてきました。そこに中国ビジネスの苦労もあり、また旨味もあったわけです。WTOへの加盟を機に、中国もグローバルスタンダードを目指し、法整備が行われてくると同時に、その厳格な適用が進んできております。
対応が本格化することが予想されるものとしてPE課税があります。PE課税については、地税レベルでも初めてということもあり、具体的な実施をどのようにするか勉強中の段階のようですが、すでに施行が決定されており、提出通知があれば同期文書を提出する必要があります。自社が同期文書の作成を準備しておかなくてもよいのかどうか、本社や弁護士に確認しておいたほうがよいでしょう。

【発展のもたらす投資環境変化】
 「世界経済の先行きが見通せない中、二桁成長を続ける中国経済・・・」という枕詞にはじまるナレーションや経済記事は見ない日がありません。新規市場やビジネスチャンスの拡大といった側面、急速な成長が社会にもたらすひずみや矛盾といった側面の両方について、投資環境に変化をもたらす要因を客観的に把握する必要があります。多数のストを誘発した賃上げは、発展のもたらした投資環境変化が顕著な形で現れたものですが、地域での雇用創出は、出稼ぎ労働者の確保を困難にし、しばらくは売り手市場が続くでしょうし、インターネットやブログなどのウェブツールにより、労働者の権利意識を高まってきています。ブログは中国政府にとっても無視できないツールとなっています。労働者の権利意識の高まりを受け、コミュニケーションの強化、モチベーションを喚起する新しい労務管理が必要になります。中国戦略を人事制度面から見直すことも必要となっています。
発展の別の側面として、開発による移転問題が地域を移して発生しています。青島地区では、昨年以前は四方区、市北区、城陽区と青島中心地から近い地域でしたが、今年前後から開発区や膠州方面に及んでいます。政策移転の場合は移転補償金についての規定があり、土地・建物の所有権が確定している場合は、相応の補償金が望めますので、代替地の確保、移転時期、移転先での労働者の確保など諸条件を勘案し、いかに有利な条件を引き出すか、ということになりますが、移転を機に中国戦略を見直すことも必要となってきます。

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日本人会だより 地域版

 7区5市(市南区、市北区、四方区、黄島区、区、城陽区、区、膠州市平度市、南市、莱西市)で成り立っている「青島」。
青島市市内各地の日本人会のご様子をお伝えします。
 

〜第1回城陽区日系企業協会親睦ゴルフ大会開催さる!〜

 〜大西秋美氏(川電鋼板) 36・40の“あっぱれ”ベスグロ、上位入賞は全てシニア50歳以上、城陽区のオジちゃん達は仕事もゴルフも強い!?〜

   

   


 去る10月23日土曜日、城陽区内の桃源江景ゴルフコースで、記念すべき「第1回城陽区日系企業協会親睦ゴルフ大会」が開催されました。2010年度の同協会活動方針として掲げられた、会員相互の親睦と健康増進のイベントとして夏ごろより計画され、人数確保に苦労しましたが、何とか実現にこぎつけることができました。
 当日は快晴微風の汗ばむような陽気に恵まれ、今年最後とも思えるベストコンディションの中、参加総数20名は各自納得のいかないスコアはともかくも、綺麗な緑の芝生の上で、楽しくゴルフに興じ有意義な一日を過ごしました。
 競技の結果は同コース初ラウンドにもかかわらず、「慎重に攻めたのがよかった」(本人談話)川電鋼板の大西さんが36・40のすばらしいスコアで第1回のチャンピオンに輝きました。多くの参加企業から提供された景品や賞品もバラエティに富んでいて、成績発表パーティも愉快なひと時となりました。「こんなに親睦大会が面白いとは思わなかった」「ゴルフもやるからにはしっかり練習して上手になりたい」「来年以降も是非この活動を継続して欲しい」こうした感想がたくさん寄せられています。
 また今回の成績の特徴の一つに、50歳以上のシニア年代が圧倒的に強かったことが挙げられます。100を切った成績の選手は例外なく50歳以上、逆に本来パワフルなはずの30歳代、40歳代が全員100以上叩くという、「老強若弱」の傾向が城陽区日本人ゴルファーの中にあるようです。 芝生の上でももっと頑張れ、中年予備軍!!
 次回の日程は未定ですが、よりよい親睦・交流の場として、今後も定期的に開催、定着していくことを願い、是非ともみんなで盛り上げていきましょう!!
計画から各種手配、運営に至るまで、大変多くの皆様に助けて頂きました。
この場をお借りして厚く御礼申し上げます。                      (文責:幹事棟田)


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日本人会成立20周年記念行事ご報告

–後編–

「昔日のチンタオ〜元在留邦人が語る70年前のチンタオ〜」

 9月下旬に行われた日本人会成立20年記念式典。その行事に関西青島会・森下敏夫会長はじめ8名の元在青邦人の皆様がご参加下さいました。終戦前には約4万人の日本人が住んでいたかつてのチンタオ。昔と今の両方を知る皆さんに、同じく元在青邦人で現在青島在住の足立吉弘氏、今回の20周年行事で特別講演をして下さった東京大学大学院・山本一生氏を交えてお話を伺いました。

  


編集部:久しぶりにチンタオに来た印象を聞かせてください。

牧野氏:
 海岸がずいぶん開けましたね。青島駅、フェリーの出る港の向こうにすごい街ができていて造船所に鉄のやぐらが立っていました。ハイアールの大きな看板も見えました。

脇谷氏:
 チンタオは昔ドイツが占領してきれいだった街。海、みどり、赤い屋根、絵葉書のような街並みが今は高層建築でいっぱい。何だか平凡な街になってしまいました。

荻野氏:
 私はチンタオで生まれて戦後までいましたが、私たちの記憶している昔の美しい街並みが無いですね。かつての青島神社(現・児童公園)での日本の祭りや秋の大運動会などの記憶が壊れかかっています。神社は当然だけれど今は鳥居も桜並木もありませんね。

佐々木氏:
 私はこの青島訪問をとても楽しみにして来ました。デラシネ会という会の所属ですが、この会は終戦当時、小学生であった人々の集まりです。兄は青島中学(現・中国海洋大学)、姉は日本青島高等女学校でしたから、戦後も同窓会がいつもあってうらやましかった。だから今回はデラシネ会を代表して来ました。

森下氏:
 毎年のように来ているけど、2000年から年1、2回は来ています。変わってきているのは事実だけど、2003年に昔自分が住んでいた楽陵路、益都路が無くなってしまい残念でした。毎年来るたびに少しずつ思い出の街並みが無くなっていると思います。聯城路の最もにぎやかだったところが、前回来青した4月から半年足らずもしない内に半分以上消えてしまっていて、涙が出る思いです。まあでも100年近く経っているから仕方無いし、悲しい思いもするけれど、元気な内は毎年来るつもりです。

編集部:皆さんが暮らしていた頃のチンタオについて教えてください。

佐々木氏:
 何不自由無い、素晴らしい生活でした。父は商事会社を作って軍に物資供給ををしていました。高密にも支店を設けて商売がすごくよかったのでしょう。裏の倉庫にお金が余りあるくらいあって、ネズミがかじっていたとか。陸軍に戦闘機を一機寄付したと聞いています。家の中には電蓄、ステレオ、オーディオなどの電化製品がありました。中国人、韓国人が隣人として住んでいて、一緒によく遊びましたよ。勉強も困らない、学校も楽しい。正直、戦争という雰囲気はあまり感じなかったです。

荻野氏:
 うちは建設業をやっていて、中国人の職人さんがたくさん出入りしていましたので、その子供たちとはビー玉などをしてよく遊びました。それから当時の生活で思い出すのは、外地(外国)にいる日本人の絆、助け合いがすごくあったこと。親同士の絆、子供同士の絆、地域の絆とね。修学旅行の時も行けない子も行けるようにみんなでお金を出し合って頑張りました。

脇屋氏:
 私は学校が終わったらすぐ剣道。だから遊ぶ時間も無かったなあ。どちらかといえばがちがちの軍国少年だったかな。思い出といえば家族でよく大港に魚釣りに行きました。ハゼが釣れて天ぷらにしましたよ。私の家庭は平凡なサラリーマンだったから、昭和18年頃から食糧配給の切符や衣料切符が配られていました。メリケン粉とかコーリャンとか。。。生徒1人500gのメリケン粉の配給がありました。

荻野氏:
 そうそう、あの頃はマン頭がどんどん固く、雑なものが入ったものになったね。

森下氏:
 うちも食料品店と洋品店をやっていたので、何不自由無く暮らしていましたね。チンタオではなく、日本にいた終戦直前の3ヶ月間に海草がたくさん食卓に上るようになって、日本には食べる物が無いなあ、と痛感しました。チンタオでの一番の思い出は修学旅行。上海、蘇州、杭州を回る10日間の旅行で、あの時に見た上海の外滩の光景は今でも覚えています。

牧野氏:
 私が一番悲惨だなあ。私は昭和17年の秋にチンタオに来ました。その前はずっと京都にいたのですが、当時内地では革靴はおろか、運動靴も無い。1年に1クラス2足ずつの配給があって、くじ引きで回していました。日曜日にはくず鉄拾いをしてから、卵2つを50人分か100人分かの数量限定配給のために毎週並んで。。。楽しい思い出なんて全く無かった。だからチンタオに来た最初の夜に中華料理のフルコースが出てびっくり。飢えに飢えているから一生懸命食べました。食べても食べても食物が無くならないなんて、どうしてこんな天国のようなところがあるんだろう、って。沧口から青島中学まで電車通学していたのですが、鉄道の枕木が鉄であることにもびっくり。日本では、ベーゴマまで献上して鉄くず拾いをしてたのに。。。それからよく10角紙幣でピーナツをポケットいっぱいになるほど買って食べました。

脇谷氏:
 私も、南京豆食べ過ぎて盲腸になってしまった思い出があります。それから思い出すのは、海軍で滑走路の石拾いをする勤労奉仕を行った時、おにぎりと紅茶を出してくれました。何でおにぎりと紅茶だったんだろう。

足立氏:
 私は戦争が終わった時は13歳。知らないこともたくさんあります。皆さん先輩方にも是非一緒に街を歩いて教えてほしいですね。

山本氏:
 終戦、引き揚げの時、学校はどうなったんですか?

脇屋氏:
 青島中学では9月1日から2学期が始まりましたよ。それから1ヶ月あまりは通常通りだったけれど、10月のテストが始まる頃、ある日突然米軍のジープが校舎にやって来て、「本日、只今を以って学校を閉鎖する。」と告げられました。

牧野氏:
 電車通学の私たちは8月15日の翌日から学校に行けなくなりました。10月31日の閉校式だけ参加しなさい、という通知を受けて生徒4、50人くらいでその日は歩いて帰りました。

荻野氏:
 確か、昭和19年頃から生徒は毎月10名以上転校していったよね。一番大きかった第一小学校も4、5クラスから2クラスに、青島中学も4クラスから2クラスになってたでしょ。

脇屋氏:
 でも興味深いことに、青中では英語は終戦までそのまま勉強していたんですよ。内地では考えられないことでしょう。その理由は当時の校長がアメリカの大学を出た方だったから、と聞いています。

荻野氏:
 私は終戦直前の3月に内地(日本)に帰ったのですが、海を渡るのは危ないからと陸路で、青島→北京→三海関→京城(現北朝鮮)→釜山→日本と、2週間かけて帰りました。荷物だけは船で運びました。

佐々木氏:
 私はチンタオ生まれだから終戦、引き揚げまで日本に行ったことが一度もありませんでした。チンタオで読んでいた絵本から日本は何て綺麗な国なんだ、というイメージを抱いていましたが、引き揚げて佐世保港に着いた時、黒い屋根の平屋が並んでいて、これまでの想像とまるで違ってびっくりしました。それに内地に帰った後はチンタオで育ったから、「チンタオ」っていうあだ名をつけられましたよ。

編集部:今回の青島訪問のご感想やメッセージをお願いします。

牧野氏:
 今回は青島日本人会の皆さんとお会いできて本当によかった。懇親会やその他の機会で、現在の日本人会員の皆さんともっとお話がしたかったです。

荻野氏:
 今度の旅行の目的は20周年記念行事参加でしたが、これだけのことを少人数でされていてすごい。さきほどお話した、外地にいるからこその助け合いや絆。これからも日本人会の皆さんにそうした気持ちを大事にしていただきたいです。

佐々木氏:
 日本人学校の立派さにびっくりしました。それに今回の講演会でてっきりドイツ人がつくったとばかり思っていた第一小学校や青島中学が日本人が建てたことを初めて知りました。今でもしっかり残っているなんて、過去の業績はすごいと思いました。

森下氏:
 私たちみんな一番多感な時期をチンタオで過ごしましたから、印象がとても強い。だからチンタオを第二の、いや第一の故郷と思っているんです。私自身も日中友好協会を通じて活動をしています。今回は青島日本人会の皆さんから20周年記念行事への参加のお招きをいただき、本当にありがとうございました。



〜今回ご訪問された牧野文夫氏の著作紹介〜

『何日君再来−あの日々はどこに−』 牧野文夫著 文芸社
昭和17年から昭和20年までチンタオで過ごした著書の思い出を綴った一冊。多感な少年の瞳を通して見た当時のチンタオの生活と様子を窺い知ることができます。在青邦人必見!

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〜広げよう!楽しもう!チンタオ友の輪!〜


16人目:渡邉丈晴さん(山口銀行青島支店)

       


 この度、了一会、子供の幼稚園、青島日本人会金融部会などで大変お世話になっているみずほコーポレート銀行の不破さんからのエンジェルパスを受け取った、山口銀行青島支店の渡邉丈晴と申します。まずはこの場をお借りして、家族共々大変お世話になっております青島在住の方々に厚く御礼申し上げます。大変ありがとうございます。

さて、2010年もあとわずかとなってきましたが、今年はサッカー・ワールドカップの開催年であったことや上の子供がQJJSC(青島子供サッカークラブ)に参加していることもあって、例年に比べサッカーに接する機会が多かった年のように感じます。
特に最近QJJSCのお手伝いをするお父さん方が主体となって結成されたOSC(オヤジサッカークラブ)の活動が盛んなので、そう感じるのかも知れません。結成当初は香港花園付近での夜ミーティングが多かったのですが、最近では中国人チームや企業のクラブチームと試合をしたり(無敗記録継続中)、ナイター施設の場所で本格的に練習を行ったりと、活動内容がサッカー部っぽくなってきました。平均年齢30後半でサッカー未経験者が多いOSCですが、個人的にはいつか青島日本人社会の正統派サッカークラブのGGJさんと試合をしたいと思っています。○原さん、よろしくお願いします。

 次回の友達の輪は、子供よりサッカーが上達しているOSCのロナウジーニョこと、青島黄瀧種子の松尾さんにスルーパスを送ります。ジーニョ、ゲームメイクは任した!

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新コーナー「住めば都よ、一度はおいで!」

住めば都と言うものの、かくも悲しき宮仕え。
社命に従い東奔西走、明日は何処に行くのやら。
語学研修有名無実、行ってこいやの片道切符。
家族帯同最初のうちだけ、今は寂しき単身赴任。
 とは言え人の住むところ、人煙あれば文化あり。
人煙なくても自然あり、それはそれでと面白い。
毒を喰らわば皿までと、折角の海外赴任楽しんでおいきなせぇ!

 第2回 〜タイ・ソンクラー県ハジャイ市〜 

寄稿:日本水産(株) 礒 利彦

   

 前号にて華々しく?スタートした新コーナー「住めば都」のコーナー。最初の数回は書きますなんて大見得切ってしまったので今回もお付き合いのほどお願いいたします。
さて青島に来て驚いたのは当地には以前タイにいましたよと言う方が結構多い事。そんな中タイ南部国境付近に駐在していた方はそうそう居ないと思われますので、2回目の「住めば都」のコーナーではタイ南部ソンクラー県ハジャイ市をご紹介します。

 タイ中央部からマレー半島を南下。東にサムイ島、西にプーケット島といった憧れのリゾート地を通り過ぎ、マレーシア国境近くにあるのがソンクラー県です。新会社・新工場の設立の為に2005年から2008年まで駐在しておりました。
ここはタイ南部の商業の中心地。マレーシアのペナンやランカウイ島へも至近です。青い空と海、そしてゴム林、かなり色黒ではありますが、人懐っこい人達。南国とはかくありけりなんて平和そうな場所です。街自体は小さく人口も30万人位ですが、マレーシア人が買い物とお酒を楽しみにくるという歓楽街的な一面もあります。ちなみにこの県にいるのはゴム産業や水産業、学校関係者等の日本人では約50人。

 ここでのお勧めはなんてたってシーフード。タイ各地の観光地を色々旅してきましたが、質とお値段ではここが一番かも。街中にも美味しいお店が多々ありますが一番のお勧めはソンクラー湖という汽水湖沿いに多々あるレストラン。ヤシの葉葺の屋根、湖に張り出した水上家屋のようなレストランで食べられるメニューを少しご紹介しましょう。
@ カニのカレー炒め・・タイ料理では有名な料理です。カニと卵を炒めカレー風味をつ けたものですがご飯に載せて食べると最高。
A 岩牡蠣・・生食ですが、過去あたった事はありません。香菜、唐辛子、揚ニンニクの 微塵切りと和えてライムを絞って食べると海の果汁が溢れます。
B 子持ちヤリイカのサラダ・・辛ーいタイのサラダに地元の子持ちヤリイカを和えたも の。こういう料理は海鮮好きには堪りません。
C カブトガニ・・日本では天然記念物のカブトガニもここタイでは食材です。カブトガ ニの卵は滋養強壮に。まあそんなに美味しいとは思いませんが話のタネに如何?

 とまあ一見平和そうなソンクラーですが、実は色々と問題もあるんです。その一つが16世紀から1902年にタイに併合されるまであったパタニー王国のイスラム分離独立勢力によるテロ。隣の3つの県ではほぼ連日銃撃・襲撃・爆破等が起きており、ここソンクラー県でも時々あるんです。はるか昔は海のシルクロードの中継貿易、第二次世界大戦後は麻薬も含めた様々な物資を扱うエリアで、且つゴム資源と沖合には天然ガスが埋蔵されているとなると、まあ色々あります。

 とは言え結局4年弱ここに駐在しましたが、人は優しいし、渋滞はないし、のんびりしているし、とても好きな街の一つで将に「住めば都」です。
 

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青島・老房子と日本人

 1915年から1945年の30年間、2度に亘って日本の統治下に置かれた青島では、4万とも5万ともいわれる日本人が住んでいた。かつて街のいたるところでは「中野町」「 伊勢町 」といった日本名の道路名が名づけられ、着物を着た日本人が往来を歩いていた。今でも約70年前と変わらず、街のあちらこちらには日本人がかつて住んでいたり、勤めていた、縁ある建物が残っているのをご存知だろうか。かつて青島で子供時代を過ごし、現在青島にお住まいの足立吉弘さんが、そんな“老房子”をご紹介します  

〜青島日本高等女学校〜

   

 青島における高等女学校の誕生は、中学校(男子校)よりも一年早く、1916年(大正5年)4月15日、「青島高等女学校」として開校しました。
場所は「青島日本高等女学校資料」によると「山東鉄道管理部構内を仮校舎とし」とありますが、青島の教育史を研究されている東大研究員山本一生氏の論文には、
「校舎は幸町元独華高等学校内旧校舎を充当し」とありますから、元々はドイツの高等学校だった校舎を利用したものと考えられます。
開校に当って1、2、3学年が募集され(修業年限4年)、1918年(大正7年)3月に第一回卒業式が行われました。その年の5月、若鶴山(現貯水山)麓の黄台路に新築校舎が竣工、移転しました。女学校がなぜ中学校よりも早く開校したかについて、前記山本論文からわかりやすく要約すると、「大正5年4月に青島小学校第一回卒業生が出るに際し、その進学先として、男子は自立して内地の中学校を選ぶことができるが、女子は簡単に親元を離れることが出来ない」から、まず女学校を開設する必要があった、ということでした。
1923年(大正12年)、青島の租借権が返還され、青島高女も、民団立「青島日本高等女学校」に改称されました。青島高女とは別に、1938年(昭和13年)、青島学院商業学校内に紘宇高等女学校が開設され、青島市内に女学校が二校になりました。
内地と比べて進学率が異常に高かった青島は、さらに生徒数が激増し、1940年(昭和15年)青島高女も教室を増築しました。
青島高女で特筆されることは、青島高女誕生間もない1918年(大正7年)、修業年限1年の「補習科」が設置され、内地の上級学校を目指す者のために英語などの補修を行っていたことです。この補習科は一旦廃止されますが、1942年に復活し、一年後さらに「専攻科」として生まれ変わります。専攻科には教育学部と家政学部があり、これは師範学校と同等の資格を持った学部でした。戦局が厳しくなると男性教員が戦地に駆り出されて教員不足が深刻化し、現地での補充教員養成校として青島高女が選ばれたのです。
専攻科は全寮制で、市内に自宅があっても全員寄宿舎生活が義務付けられ、北京、上海、天津、済南など中国各地から生徒が集まってきました。当時中国国内には寄宿舎を持つ中学校、女学校は青島だけでしたから、専攻科設置は中国国内でただ一校、青島高女に白羽の矢が立ち、中国国内の日本人教諭補充の任務を担ったのでした。
これをみても、当時、青島の教育環境がいかに優れ、先駆的であったかが明らかです。
(資料提供は専攻科出身・中島道子様)

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会長はシェフ!

 〜スモールキッチンでも作れる簡単レシピ〜

 サービスアパートメントの少ないコンロや電磁調理器などを利用して、手軽においしく作ることのできるレシピをご紹介したいと思います。一人でも、不便でも、面倒がらずに自炊にトライ!

11月「バルサミコ&マスタードと麺つゆのドレッシング」

簡単!サラダにも、白身のカルパッチョ、刺身にも、ウドン、蕎麦にも
オールマイティーの「たれ」になります。


  材料(量は目安です)
 ・ たまねぎ 大1個
 ・ バルサミコ 100cc
 ・ オリーブオイル 40cc
 ・ 粒入りマスタード 30~40g
 ・ 希釈用の麺つゆ 60cc


 作り方
 @ タマネギはできるだけ細かくみじん切りにし、バルサミコ・粒入りマスタード・麺  つゆを味を見ながら混ぜて、余裕があれば冷蔵庫で2−3時間寝かしておきましょ  う。

 A これにオリーブオイルを加えて出来上がり。サラダはもちろん、白身魚の刺身、ウ  ドン・蕎麦のタレ、クラッカーのディップ等と、色々な使い方があります。

ポイント
 タマネギは細かく切るのが大事。ワインビネガー・粒入りマスタード・麺つゆの量はお好みで、かける素材に合わせて調整するのが 腕のみせどころ。ゴマや紫蘇を加えても、面白い。このドレッシングは北京の和食ダイニングLenLenの玉井実さんとのコラボ作品です。

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だーぐぅ爺のひとりごと

 〜当地での「不祝儀」見聞記(その一)〜

 大げさなタイトルになったが、冠婚の方はこれまで何度となく出席して頼まれればスピーチをし、にぎやかに乾杯して楽しく騒いできたが、葬祭の方は、どのようにされるのか一度参席してみたいと思っているのだがとんと縁がない。ちょうど知人と話をしているときにこの話になって、貴重な体験話を聞いたので忘れぬ内にお話しとこうと思ったわけだ。
まあ、一度の出席ですべて分かったようなことを言うてもいかんのじゃが、何せ、書き物でもお目にかかってないので、多少違うところがあるかも知れぬがそこは容赦してもらいたい。

 市立病院で亡くなった翌日、安置所に遺体を引き取りに行く。そのとき、葬儀用の黄色い薄いカミ束、玩具のお札、果物など持参し、安置所にある竈にくべ、遺体を火葬場に運ぶ。翌朝、関係者が集まり、会葬の部屋に入ると部屋の真ん中に遺体が安置されている。日本のような棺桶ではない。喪主、親族が左側に立っていて、参列者は数人ずつ入室し正面に向かい個人の足側に整列。司会者の黙祷の声で頭を下げ、続いて時計と反対方向に故人を偲びながら周り、親族の方に悔やみを言って退出する。全員終了すると親族が最後のお別れでベッドの周りを取り囲み花など置くが、そこに火葬場の屈強な男たちが来て移動ベッドを運びだそうとするのと最後の接触を求める女たちの叫喚、号泣、凄絶きわまる絶叫で異様な奪い合いの会場となり、それでも引きはがされ別室に連れ出される頃には次の葬儀の準備がされており、遺体の周りの花環に書かれた名前の紙を差し替えていた。

 仕方なく外にでて、数時間待つことになる。入り口に香典の記帳があったので、ペラペラと繰ってみると最初は親族の2千元があったが少ないほうは200元。おしなべて600元というところであった。3時間くらい待っただろうか、日本のように遺体がそのまま骨になってきてお骨を拾うという儀式はない。喪主が金字で刺繍した厚手の赤い布にお骨の入った宝石箱のような箱を持参してくるとまた叫喚となるが、そのまま火葬場の空き地に持って行き、空いた場所に置き、その前に肉や魚などのご馳走、果物、飲み物を並べ、喪主に始まり親族が順番にひざまずき、頭を3回地面につける。(ちなみに未婚女性はこれには参列できないということだ。墓に埋める儀式にも)。このときも遺族の婦人方の叫声は凄まじい。声が喉の別のところから出ているように思える。男は涙が止めどなく流れるが声は出ない。それから黄色い束になった薄紙や玩具の紙幣に供え物と一緒に火をつける。家を出るときに汚れてもよい格好で来いといわれ不思議に思ったものだが、周囲でも火を出しているので風に煽られた紙くずなどが容赦なく飛んできて全身に煤がつく感じである。周りでは豪勢な(写真)飾り物を並べている。これも今後ますます華美になるのだろう。お骨の入った箱は火葬場の中のロッカー式の安置所に預けて解散となる。
不思議なのは喪主の挨拶などスピーチが一切ない。黙々と行われる。(以下次回)

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浮山情的書評 -(その6)-

 〜貴妃は毒殺されたか〜

 入江曜子   新潮社(1998年)

 清国最後の皇帝 愛親覚羅溥儀の「わが半生」と彼の弟溥傑に嫁いだ嵯峨浩の「「流転の王妃」の昭和史」に共通の悪人が登場する。陸軍中将で関東軍の参謀であり皇帝付きとして務めた吉岡安直である。戦後の東京裁判で溥儀から第三夫人である賈玉華を毒殺したとか、浩からは軍の権威をバックに尊大なふるまいで何様かといった書かれ方をしている。
 副題に【皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎】と題したこの本は、溥儀と浩の自伝や他の書物、あるいは関係者への精力的なインタビューを行う中で、自伝に書かれた欺瞞性を明らかにし、吉岡氏の名誉回復を行う。それは、同時に読者たるわれわれに自伝が何のために書かれたか、ありのままを描いたのでは無く、ある意図を持って書かれたのではないかという疑いをもって読む必要があること。特に、吉岡の場合は、関東軍に「悪」のイメージがあるがゆえに、そういうことも行われたのであろうと納得してしまう恐ろしさを教えてくれる。
 「わが半生」は3歳で清国最後の皇帝に即位し7歳で廃帝になったあと、復僻の実現のために時の権力者にすりより、満州国の初代皇帝として君臨する。しかし、それは傀儡であって、自分の意思はまるで出せなかった。戦後、ソ連に抑留され、新生中国に勾留され、これまでの半生が間違っていてようやくに真人間になったという表明である。自己批判、責任の重さを認識するという言葉はあっても関東軍を悪く言えばいうほど自分の罪は軽くなる。カメレオンのようにその場その場で前の衣は脱ぎ捨てて変わり身早くその場に染めていく姿はしたたかで「改造された皇帝」の物語として完成されている。
 「流転の王妃」は華族の姫君が日満の架け橋として渡満し、満州皇室での日々から関東軍の撤退により悲惨な引揚げを経験したことが縷々述べられ、確かにお嬢様には大変な経験であったろうと読者の共感をよぶ。ところが、そもそも、溥傑は皇帝の順位から外れ、満州国の1軍人に過ぎない。従って王妃ではない。にもかかわらず、彼女の王妃のごとき振る舞いに、皇帝付き武官の吉岡にしてみれば軽佻そのものに映り叱責するのだが、彼女には軍の権威を嵩にきた「何様か」となる。
戦後、天城心中の当事者である浩の娘について自伝ではストーカーまがいの大久保に無理心中されたと書き、世間一般の同情を得て基金を募り碑をたてた。が、著者の説は、身分の違いから娘と付き合うことを許さず、娘もその母に辟易しての心中ということとしている。
 悪人とされた吉岡はソ連に抑留され、1947年モスクワで病死した。しかし、家族が知ったのは消息絶って17年後の1962年。著者は軍人として彼に罪ありとすれば職務に忠実であり、それを果たす上で有能であり、妥協しなかったことであったと。そして、彼が不在であるというそのことによって、彼を「犠牲の羊として責任を吉岡個人に帰した」と。さて、真実は?

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新コーナー「やっぱり何々が好き!」

 〜ワタリガニ編〜

     


                                 By 黄島小僧

 さてあんなに暑かった夏も終わり、あっという間に秋から冬になってしまいった青島ですが皆様いかがお過ごしでしょう?月刊青島の新企画「やっぱり何々が好き!」は中国や青島での食に関してのグルメ系のエッセイとして、徒然なる儘に書き綴っていくコーナーとの事。そんな記念すべき第一回目として秋から冬の味覚、カニをテーマにスタートしてみようかと思います。

 「蟹喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」と子規が詠んだ訳ではありませんが、ここ山東半島が面する黄海はワタリガニの名産地。この時期は身もしっかりと入り一年でもっとも美味しい時期を迎えます。えっ中国でカニと言えば上海蟹ではとおっしゃるあなた!無論上海蟹も美味しいのですが、お世辞にも綺麗とは口が裂けても言えない上海付近の淡水湖で養殖されている上海蟹。何処でどんな育て方されたかも判らないものよりは、せっかく青島に居るなら黄海で捕れた新鮮ワタリガニ、お手軽価格で最高の味を堪能してみませんか?ちなみに小生の独断と偏見では、カニミソの味でいうなら毛ガニ。喰い応えでいうならタラバガニ。身の味で言うならワタリガニと勝手に思っています。

 という訳でまずは食材探しにGOです。小生がいる黄島エリアでしたらジャスコ近くの武夷山市場ですね。時期やサイズ、蟹の状態にもよりますが1斤(500g)=50元−120元位が相場でしょうか。1匹が250g−400gでしょうが、食べやすさから言えば大きいものを選びましょう。(大きい物の方が高いです)メスは卵入りが旨いですが、身の味ではオスの方が美味しいです。(ちなみに今回は500g=75元でした)
買い方のポイントとしては、持ってずっしりと重い事。蟹はかなりナイーブな生き物ですので、捕れてから時間経つと活魚なのに体重が減って活きが悪くなるという矛盾の代表格。基本的には産地に近ければ近い程良しです。最初は判らないので店のオバちゃんに選んでもうらうのも良しとしましょう。

 鋏を輪ゴムできつく縛られていますがこの輪ゴムごと蒸すと嫌なゴム臭が残るので、はずしてから蒸すのがベストです。とは言え生きているワタリガニ、鋏が危ないのでタコ糸があればそれで縛り直すのも良いですが、面倒なら鋏をもいでしまうのも一案です。鍋もしくは蒸し器、なければ深めのホットプレートに塩水貼って、沸かしてから可愛そうですが活きたまま放り込みます。しばらくの間ガサガサゴソゴソと動いていますので、人の罪深さを思い知りながらお経の一つでも唱えてみるのも良いかもしれません。(そうそう大事なカニ味噌が流れないよう甲羅は必ず下にしましょうね)

 活カニですので蒸し時間は5−6分かと思います。蒸し過ぎ茹で過ぎは禁物。茹で上がったら熱々だと手をヤケドするので、少々冷ましてから、さあいただきましょう。歯が欠けたら洒落にならないので、殻を割るものは用意された方がよろしいかと思います。

 カニの漬け汁としては三杯酢やポン酢というのがまあ定番なんですが、エスニックかぶれの小生としては、醤油に胡麻油を垂らしニンニクと香菜の微塵切りを入れたタレなんかでも楽しんでますよ。
殻から出した白い身をチョイチョイとタレにつけて戴けばもう止まりません。最近のマイブームは、掻き出した身をカニ味噌と一緒に混ぜ、ご飯の上に載せて先ほどのタレを垂らしてワサワサと食べる。蟹肉の旨みと濃厚なミソの味が口中で混然と混じりあい、もう堪りません。好みでバターと醤油でも良し、パスタに載せ、揉み海苔かけても最高です。

 蟹を食べる時は無口になってしまいますが、そうして至福の時を過ごした後には、大量の蟹の殻とべとべとの手が残ってしまう訳です。そんな殻を武者の鎧に見立てての一句。「蟹の殻、つわものどもが夢の跡」と今回は子規のパクリで始め芭蕉のパクリでまとめてみました。お後がよろしいようで。

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「チンタオ写真館」

〜チンタオ写真館では写真同好会の皆さんの作品をご紹介します〜

 テーマ「食べ物」

            1位                      2位

                 

     

 

 

 

テーマ「秋」

               1位                              2位

  

    

 

 

テーマ「風」

                  1位                                 2位

     

   

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「げっちんアンケート!」

 げっちんアンケートでは、チンタオにお住まいの読者の皆様を対象とし、「どんな人が、どんな風にチンタオで暮らしているの??」の素朴なギモンのもと、毎月アンケートを実施。アンケート結果は翌月号にて掲載します。チンタオ古株の方もチンタオ新参者の方もぜひ添付のアンケートにお答えください。

 10月のげっちんアンケートでは、皆さんの「国慶節の過ごし方と休暇日数」ついてお聞きしました。アンケートにお答えいただいた方、どうもありがとうございました!今回の回答を見ると、休暇数がもっとも多かったのは、5日〜7日で、次点の8日以上を合わせると全体の約8割近く。国慶節の過ごし方で多かったのは、「日本に一時帰国」で、数少ない年に数回の長期休暇を満喫されているようでした。今月のげっちんアンケートは「あなたの知りたいチンタオ生活情報は何ですか?」です。下のアドレスをクリックしていただき、添付のアンケートにお答えください!

 

 

今月は「あなたの知りたいチンタオ情報は何?」です

http://www.efeel.to/survey/gekkanqingdao/

にアクセスして下さい。

ユーザー名:user

パスワード:qingdao

です。

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イベントカレンダー

【日】日本人会 【領】総領事館 【学】日本人学校 【貿】ジェトロ

11月

 3日(水):繊維部会
 6日(土):学習発表会
 7日(日):【日】青島会(第43回 於:大阪)
14日(日):【】英語検定 2次試験
17日(水):】機械電気化学部会
18日(木):【】学校理事会
19日(金):【日】食品部会
28日(日):【学】中国語検定
29日(月):【学】期末テスト(中学部)
30日(火):【日】全国日本人会懇親会(北京)

 

12月

 3日(金):【日】繊維部会
 7日(火):【日】婦人会チャリティークリスマス会

 

〜あなたの声をお聞かせください〜

『声』 〜あなたの声をお聞かせください!〜 チンタオライフ、満喫していますか?こんな事があったらいいなあ、こんなことはできないだろうか?などなど、 あなたの日頃の想いとグッドアイデアをお聞かせください! 記名、匿名問いません。あなたの貴重な声をお待ちしています! 声はこちら→gekkanqingdao@yahoo.co.jp

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