月刊青島--青島日本人会生活文化会発行
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山東省の古代史
 
「斉」国の桓公(生年不詳~紀元前643年)
 

 今回は、山東省の大半を領した「斉」国の君主にして、春秋時代に第1番目の覇者となり中国全土に名を轟かせた、桓公(かんこう)のお話をしたい。

 今年9月、なでしこジャパンを応援するため済南へ行く途中、淄博(しはく)の市内観光をした。その際に斉国博物館を久しぶりに訪れ、現在の山東省淄博市に都を構え、中国古代に一大強国として隆盛を誇った「斉」国を偲び、太古の昔に想いを馳せた。中国の古代史上、「斉」国が輝きを放った時期が何度かある。そのうちの一つが桓公の時代ながら、存命中の栄光とは裏腹に、その死後大いなる混乱を招いた。「斉」国の桓公は、山東省古代史シリーズ第2話の3月号「管仲(かんちゅう)編」のとおり、幾多の苦難を乗り越え「斉」国王の座を勝ち取った君主である。管仲は後継を争う桓公の実兄に仕え、王位後継者レースを勝ち抜く非常手段として桓公の命を狙った張本人ながら、桓公は怨みを脇に置き彼を許した。そればかりか管仲に宰相の位を授け、「斉」国は経済的にも軍事的にも、東方の強国として栄華を極めることになる。

 かつて中国全土を従えた周王室は、もはや諸侯に号令して秩序を維持する権威も軍事的実力も持ち合わせていない。そのため実力ある君主が、周の天子に代わって国同士の争い事を調停する会盟の主として、地方の安全保障を約束していくことになる。「斉」国は管仲という名宰相を得て、強大な国力を背景とし桓公が春秋時代の最初に覇を唱えた。桓公が数カ国の兵を束ね周王室の権威を高めるとともに、地域の安寧をもたらしたのである。諸侯との友好を確認しあうための会盟を何度か主催し、その地位を不動のものにした。

 斉国内で家臣が桓公に相談すると、何事にも「管仲へ聞け」とばかり答えるので、家臣は「君主とは楽なものですね。全て管仲に任せておけば良いのですから。」と陰口をたたいたとか。それを受けて桓公は、真面目な顔で反論したそうな。「管仲を得るまで苦労したのだ。管仲を得てからは楽をしても良いではないか。」と。ところが桓公は、40余年という長い治世のなかで慢心が生じた。「封禅(ほうぜん)の儀式」をやる、と言い出したのである。これは天下を治めた皇帝が、山東省の霊峰「泰山」という聖地で天地を祭る儀式であり、一介の諸侯が行って良い儀式ではない。(山東省古代史シリーズ第8話の9月号「泰山編」ご参照) これは管仲が、必死に説得し思いとどまらせた。

 残念ながら管仲が先に世を去り、桓公にブレーキをかける者がいなくなる。桓公は管仲の死に臨み、側近として昇進させたい人物の名前を口にする。その3名とは、桓公に気に入られようと、自分の子を殺したうえでスープにし献上した者、親族を見棄てた者、自ら去勢して宮中へ入った者達である。管仲は絶対に用いないようにと釘をさしたが、桓公は管仲の言葉を無視し、彼の亡くなった後に全員を重用した。その3名が権力を欲しいままにし政治を混乱に陥れ、桓公の死後6人いる愛妾の子供達が後継を争うという大事態が発生した。その騒動のなかで、桓公の遺体を納棺する者が宮中におらず、その亡骸は67日も捨て置かれ、蛆(うじ)が外に這い出して来る有様だったとか。

 諸国の争いごとを調停し天下の乱れを正した桓公が、最後は自分のお膝元でその死後に自身一国の後継争いを防ぐことができなかった。「斉」国の桓公は管仲を得て覇者となり、管仲が亡くなるや晩節を汚し、その輝きを失ってしまった。自国の後継者レースを勝ち抜き、他国の諸侯を束ねるほどの運を引き当てたのが桓公自身の徳によるものなら、その死後に自身の埋葬もしばらく親族や家臣に忘れられるほど、運に見放されたのも桓公自身が徳を失ったからであろうか。桓公と管仲の反目から信頼・死別に至るまでの過程、それを反映した「斉」国の盛衰を眺めてみると、史実ながら虚構を描いた小説よりもおもしろい。山東省は今から2千5百年前もの昔から、文化・文明が花開く先進地域であっただけではなく、ドロドロとした政争渦巻く地方政治の中心地でもあった。

 次回は、殉馬抗で有名な「斉」国 景公のお話を。

 

 
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