月刊青島--青島日本人会生活文化会発行
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青島の空の下で(58)  
   

  2月の終りに亡くなったドナルド・キーンさんの自伝を読んでいると 
「終戦後の青島、その喧騒と腐敗」という章に会う。第六海兵師団の日本語通訳として終戦後の9月末 グァムから青島へ上陸した。海から見た青島は巨大な絵葉書のように見えたそうで、上陸第一陣で街に出ると、人力車の車夫に囲まれ、通りに並ぶマーケットには、「どこも食料や煙草、衣類、鍋や釜の類があふれ」ていて、日本軍司令部にはそのまま日本軍の将校が占拠し、まだ正式には降伏していなかった。

 ところが数週間いると腐敗がはびこり、アヘンの密売、友人の密告、告発などドロドロした実態が知れてくると戦争犯罪人の取り調べが嫌になり帰国申請して上海から東京に向かったということだ。そのキーン氏が斉南から青島の帰りに邸宅から音楽が聞こえ、たち寄ってみると沢山のレコードに蓄音機を備えた日本人が住んでいた。誘われて時間がないのでベートーヴェンの「第九」の三楽章を聴いた。灯火管制もなく窓を開け、ついこの前までの敵国人と音楽を聴くことに平和を実感したという。それは自伝ではなく何で読んだのだが出展が定かではないが感動的な記事なので覚えている。

 ベートーヴェンの「第九」も実は青島と縁があって、第一次世界大戦でドイツの植民地であった青島に日本が攻め入り、多くのドイツ兵捕虜は日本の各地に送られ、徳島に作られた収容所に多く入った。音楽に素養ある将兵が中心になり音楽隊を作り「第九」を演奏した。それは日本で最初の演奏であったという。丁度100年前の話である。

 青島に縁のある音楽家といえば、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」など作曲した中村八大。1931年1月青島生まれ。父親が青島日本人学校の校長で音楽的素養を認めた父親の勧めで小学校4年の時日本に単身留学した。戦争の激化により1943年夏再び青島に戻り45年一家で久留米に引き上げた(以上ウィキペディアによる)。青春時代をずっと青島で過ごしたわけではないので、作曲の中に青島的なものがあるかという点は少々稀薄ではあるが しかし、青島うまれの大作曲家には違いない。

 青島には、青島交響楽団というのがあって3月から翌年1月をシーズンとして定期演奏会を持っている。ホームタウンは人民公会堂で若干、音響に難があるものの、地下鉄の駅を出るとすぐ目の前という利点がある。胶州湾におちる夕陽を見ながら週末の一日音楽に浸るのも良いものである。(I) 

 


 
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