月刊青島--青島日本人会生活文化会発行
目次

 

  

 


   その6

日独開戦(2)ーー
  攻撃陣地の確保

  2012年 11月
                  

                  日独開戦(2) ーー ( 攻撃陣地の確保 )

1.前書き ――― 総攻撃開始のための攻撃陣地の確保         (図 6-1) 9月29日における日本陸軍の師団各隊の配置図

  大正3年(1914年)9月6日、日本陸軍師団主力は竜口に上陸、師団
支隊は17日に労山に上陸した。これらの上陸部隊は、9月25日には
右図の位置(赤印)に配置を完了した。

  日本軍の作戦計画は孤山-浮山のライン(青線)までの独逸軍を
攻略し、このラインに沿って重砲陣地を設営して青島にある独逸要
塞を砲撃・占領するというものであった。この作戦計画に従って、
日本軍は9月25日以降直ちに南進して攻撃を開始した。

  この段階における日本陸軍の戦力は約5万名、これに対して独逸
軍の戦力は約5千であったから、独逸軍は主力を青島の砲台、堡塁
に配置し、孤山ー浮山の外部には少数の独逸歩兵が配置(緑印)さ
れているだけであった。

  従ってこの地域における戦闘は圧倒的に日本軍に有利に展開し、
10月29日までに日本軍は孤山ー浮山ライン(青線)までを確保し、
しかもこのラインに沿って12カ所の重砲陣地の設営を完了した。

  かくして日本軍は10月31日、全重砲陣地は一斉に砲撃を開始し、
歩兵部隊は砲台・堡塁攻略に向かって前進したのである。

   【 地図出典:大日本戦史 第5巻】

                                  
2.攻城砲の設置                            (図 6-2) 軽便鉄道で移送中のカノン砲 

  日独戦役で使用された攻城砲はカノン砲と榴弾砲であった。写真は
15センチ口径のカノン砲である。

小口径の榴弾砲は、9月29日以降比較的早くから実戦に使用された。
そのため、この小口径榴弾砲は10月29日までの戦闘で機動的に移動し
て使用されたと思われ、その配置状況は山砲兵中隊と同様、攻城砲兵
展開要図には記載されていない。
 
  【写真出典:以下の写真は、別記するものを除き、全て「日独戦役
   記念写真帖」より】



 
                                    (図 6-3)台座に据え付け中の28センチ榴弾砲


28センチ榴弾砲は台車ではなく、大がかりな砲座に固定据え付けのた
め、その設置には多くの労力と時間を必要とした。

青島砲台の砲撃は10月31日払暁より開始されたが、この28センチ榴
弾砲は設置が遅れて11月2日から砲撃が開始された。

【写真出典:「世界大戦の記録」より】



日独戦役において日本軍が使用した攻城砲は次の通りであった。


陸軍重砲
・28センチ 榴弾砲   6門(砲座据付)
・24センチ 榴弾砲   4門(砲座据付)                            (図 6-4)据え付けが完了した24センチ榴

弾砲
・20センチ 榴弾砲   4門(砲座据付)
・15センチ 榴弾砲   36門 (台車据付) 内24門野戦用
・12センチ 榴弾砲   24門 (台車据付) 全門野戦用
・15センチ カノン砲  2門 (台車据付)
・10センチ カノン砲  12門 (台車据付)

海軍重砲(攻城軍)
・15センチ砲     4門
・10センチ砲     4門

総砲門数   88門


独逸軍砲台に配備された重砲門数は、おおむね次の通りであった。
・28センチ 榴弾砲    4門         ・15センチ カノン砲   18門
・28センチ カノン砲   2門         ・12センチ カノン砲   10門
・24センチ カノン砲   2門         ・ 9センチ カノン砲    4門
・21センチ カノン砲   4門         ・7センチ カノン砲   6門
・15センチ 榴弾砲    4門         (この他に小口径の砲が臨時砲台・堡塁で使用された。)
総砲門数      54門

日本軍は火力の面で独逸軍を上回っていた。日本軍は榴弾砲を多用したが、これに対して独逸軍ではカノン砲が多かった。それはおそらく、独逸の砲台は海から攻めてくる艦船を遠距離から砲撃することを目的としていたのであろう。だが、日本軍は要塞の背後とも言うべき陸地から攻勢をかけた。このため最初の1ヶ月間独逸軍は、山蔭や掩蓋に隠れて攻城準備に集中していた日本軍に対して1日数千発の砲丸を浴びせかけたが、カノン砲の弾道のせいか日本軍にはあまり損害はなかったようだ。

 


3.野戦電信隊の配備
                                     (図 6-5)野戦電信隊の活動
 日独戦役において、日本陸軍は実戦において初めて野戦電信隊を配備
した。従来は、情報・指揮命令の伝達は伝令が口頭・文書で行っていた
ことを思えば大きな変革であろう。

  兵士が電信線を収納するリールを背負って、路上に電信線を敷設して
いる。柱を立てて、電信線を中空に敷設する写真もある。
  このように野戦電信隊は有線電話による情報伝達を行っていたので、
無線通信と異なり機動的な移動・敷設は困難であるので、実際の活動は
作戦本部と重砲部隊との情報・指示連絡程度にとどまったのではないだ
ろうか。

  前図 (6-4)において、写真の手前右の兵士が電話連絡を行っている
ように見受けられる。


4.航空隊の配備                              (図 6-6) 陸軍航空隊

  陸軍は今回の日独戦役において初めて飛行機を実戦配備した。すな
わち、モーリスファルマン式複葉機2機とニューポール式単葉機1機
をそれぞれ分解して航送して竜口で陸揚げ後組み立てた。飛行場は龍
口、平度、及び即墨に設営された。
  これらの飛行機の主な任務は空からの敵情偵察であり、情報は帰着
後の口頭報告の他、情報を記載した通信筒を地上部隊に投下して連絡
を行うこともあった。
  また、独逸のルンブラー式飛行機と数度にわたって空中戦を行った
ほか、敵陣に爆弾投下を行った。

              【 写真出典:「青島戦記」より】

 
                                    (図 6-7) 海軍水上飛行機
 一方で海軍は、モーリスファルマン式複葉機にフロートを装備した
水上機2機を、飛行母艦「若宮」に搭載して青島に配備した。主たる
任務は陸軍機と同じく敵情偵察であったが、敵軍艦に爆弾投下を行っ
た。なお、海軍飛行機の基地は沙子口であった。

              【写真出典:「青島戦記」より】

  この戦役を通じて、陸海軍とも銃弾により機体の一部を損傷したが
いずれも修理可能で、被弾墜落など機体そのものの損失はなかった。
  これらの飛行機は、日独戦役の初期から終期まで、敵情偵察に大いに活躍した。


5.交通壕の掘削                                  (図 6-8)交通壕を前進する歩兵




  日本陸軍は、孤山-浮山ラインを確保した後、独逸軍からの猛烈な砲撃
にも殆ど反撃せず、堡塁・砲台への総攻撃に備えて、兵士を独逸軍の機関
銃掃射から守りつつ進撃するため、歩兵・工兵共に「交通壕」の掘削につ
とめた。

  この交通壕は、独逸軍の堡塁の間近まで計画的に掘り進められており、
時には堡塁の前線に設置された敵の鉄条網の下をくぐって掘り進められた。

  これとは別に「掩蓋」も作られた。掩蓋は穴を掘りその穴の上に板木を
かぶせて、機関銃射撃あるいは大砲の破片から兵士を守るもので、総攻撃
を開始するまでの間、ひっきりなしに降り注ぐ独逸側の射撃や砲撃から兵
士を守る構造物で、一種の「塹壕あるいはトーチカ」といえそうだ。

  総攻撃が始まるまでの約1ヶ月、独逸側からの砲撃は激しいものであっ
たが、この間の日本軍兵士の被害は予想外に少なかった。

              【写真出典:「青島戦記」より】

 

 

6.戦場での幕営                              (図 6-9)兵士達の幕営

  総攻撃が始まるまでの間、日本軍主力は李村付近に集中していたが
この付近には僅かな農民が居住していただけで、兵士の宿舎とすべき
建物は全くなかった。

  そこで兵士達は、丘陵の山蔭で砲撃を避けられる場所に天幕を張り
そこで起居した。

  各大隊本部もこの場所に設置され、師団司令部将校以外は、全て天
幕内で指揮を執り、ここで起居した。

  この作戦に参加した英国軍も、日本軍と同様に幕営した。


7.自動車輸送隊が活躍開始                     

                                   (図 6-10) 自動車隊が活躍開始
 日独戦役では大量かつ迅速な弾薬補給が必要であるとの考え
から、馬匹による弾薬輸送に替えて、自動車による攻城砲部隊へ
の弾薬輸送が初めて実用化された。

  ただ、この地域における当時の道路事情は自動車走行を考慮
したものではなかったので、陸軍は独逸軍の砲撃回避を考慮し
た上で、新たに自動車道路を建設した。

  この写真を見ると、自動車のタイヤは空気タイヤでなくソリッ
ドタイヤであることが判る。




8.四房山への独逸軍の逆襲と、一時停戦下で独兵の屍体収容

  日本軍は、独逸軍の堡塁・砲台を攻略するため、孤山ー浮山ラインまでの地域を短時日で確保した。ところが10月2日、独逸軍約600名は孤山の近くにある四房山に陣取った日本軍一個小隊に対して、三度の逆襲を仕掛けて来た。日本軍はこれと交戦しその都度撃退したのだが、独逸軍は戦死者を遺棄したまま敗走した。

  この地域は常に砲弾が激しく撃ち込まれ、うっかり顔を外に出すと狙撃される戦場である。そのため独逸兵の屍体は数日間放置されたままとなったので、日本軍は無線通信を以て独逸軍に屍体の処理を尋ねたところ、11日になって独逸軍より回答があり、日本軍の手によっての屍体の収容を乞い、その間、午後1時より4時まではこの地区における砲撃は一切中止するとのことであった。

  日本軍はこの回答を諒とし、翌12日、数名の兵が白旗を掲げて屍体の収容を行い、旅団長が立会の上、付近の適当な箇所に鄭重に埋葬し、認識番号を記載した墓標をたてた。被葬者は将校1名を含む22名であった。この間は旅団長はじめ全員、黙々として声なく死者を弔ったとのことであった。
                            【 出典:青島戦記より 】


9.非交戦者・中立国人の避難

  大正天皇陛下は、青島総攻撃に先立って、青島市内に残る独逸人の非交戦者及び中立国人が戦火に遭うことのないように避難させることを望まれ、この趣旨を青島攻城軍指揮官並びに青島封鎖艦隊司令長官に与えられた。日本軍はこの趣旨を無線通信を以て独逸軍に通知したところ、独逸軍はこの趣旨を受けて、10月13日午前前10時に、交渉全権を有する双方の軍使が東呉家村に集合し細部を協議した。その結果、独逸人女性2名、米国領事及び従者合計3名が避難することが決定された。協議の席上、青島独逸総督ワルデック少将より日本側攻城指揮官に宛てて、日本天皇の非交戦者に対するご配慮に深甚なる感謝を申し上げる旨の書簡が交付された。

  10月15日、独逸海軍ランチが避難者5名を乗せて、青島郊外の膠州に到着した。日本軍からは陸軍大尉があらかじめ膠州に出向き、到着した避難者を独逸軍から引き継ぎ、当夜は膠州に1泊、翌日すでに日本軍によって全線修復された膠済線を陸軍大尉と共に貴賓車で済南まで移動、済南では日本北京公使館館員が避難者を出迎え天津まで護送した後、避難者を第三国領事館に安全・鄭重に引き渡した。
                           【 出典:青島戦記より 】



                         ーー ひとり言 ーー

  戦争とは国家の非情な行為である。相手を倒すために、資源と技術の限りを尽くし、最新の武器を開発して戦闘に臨む。
  日独戦役においては日本軍は5万人、独逸軍は5千人が戦ったのだから、両国の軍事装備の差もさることながら、戦闘に直接関わった戦力・兵力を見る限り、勝敗の帰趨はほぼ明らかであった。

  だが日独戦役においては、日本軍には武士道があり、独逸軍には騎士道があったと思う。両軍共に勇敢に戦ったが、同時に弱者を守り、死者を鄭重に弔い、戦争が終結すればお互いにいたわり合う、寛容の精神があったと思う。

  この精神は、この日独戦役後も常に日本人の気持ちの中にあったと思うし、これからも持ち続けたいものだ。



  この物語をご覧頂いた方々の中で、我々の発表に誤りがあると思われたり、あるいは追加したい事項があるとお考えの場合には、どうか我々宛にメールをお送り頂きたい。お送り頂いた内容を、ご同意が頂ける場合には、原文のまま発表させて頂くつもりである。




 
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