月刊青島--青島日本人会生活文化会発行
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青島の空の下で(79)  
   

 10月終わりの土曜、日曜に、青島ジャパンデイが,黄島で2019年秋にオープンしたイオンモールに移して行われた。近隣地区にコロナ感染者が出たことでギリギリまで主催者は気を揉まれたことであろう。総領事や地元中国方の幹部の出席した開場式で「このジャパンデイをご覧になり、コロナが終息して皆さんに早く日本を見て頂く機会が来ますことを」と挨拶されていたが、思いは皆一緒であった。午後に日本人学校生徒有志による和太鼓「信州上田原合戦太鼓」の演奏が館内に鳴り響き、熱演が終わる頃には吹き抜けの上の階にもたくさんの人が集まっていて拍手喝采であった。学校も運動会や学習発表会など、保護者であっても入れない「無観客」式が続くなかなので子供たちにとっても良い思い出になったのではなかろうか。

 ブラジルに植民した日本人を描いた『灼熱』(葉真中顕)は印象深い作品だ。そもそもブラジルについて無知であり、本の題名からも、開拓に関わる苦労や困難を描いた内容だろうと読み始めたが、「二つの祖国」(山崎豊子)にあるようなアメリカでの日系人の過去などは、ブラジル移民に限って想像もしていなかった。しかし、排日運動があり、第二次大戦でブラジル政府が連合国側についたため日本は敵国となり、日本の大使などが引き上げたのち20万人近くが現地に取り残される。

 戦争が終わっても信頼できる情報がなく、「神国」日本が負けるはずがない、戦争に勝ったという「戦勝派」と、主に都市にいて現地語ニュースを通じて負けを認めた「敗戦派」があった。近郊の村では、敗戦を告げる玉音放送も、電波の状況が悪く、途切れ途切れに入り、しかも格調高い言葉のため意味されるところが通じない。リーダーが「戦勝の詔だ」と叫べばみなも雷同する。弁士がニュース映画を持って回る。東京湾上の降伏文書調印も敵味方を反対に説明し、日本勝利が確定した瞬間の記録だと言う。群衆は歓喜の涙を流しながら観る。期せずして「大日本帝国万歳」の合唱が起こる。一方の「敗戦派」は当初1割に過ぎなかった。内心では戦勝を疑う人も徐々に増えてくるが、多数派から「国賊」「非国民」とされることを恐れ、同邦による殺傷事件や、さらには混乱に乗じた悪質な詐欺事件が続いたという。

 来年は日中友好50年にあたる。コロナもあってかイベント機運もない。あの黄島事件は丁度10年前。秋晴れの土曜日の午後であった。青島にいながら、情報は日本からのテレビで知り、対岸で何が起こっているのかサッパリわからなかった。何人か連絡を取り合って集まってみても何をするということもない。その後しばらく、レストランやタクシーで「日本人お断り」とステッカーを貼っているのがあった。あの空気はどこに行ったのだろうか。被害にあった日系企業は封印し、日系社会でも当時を知る人はわずかでほとんど口に出すことはない。 「忘却とは。。。。」か。 (I)

 


 
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