月刊青島--青島日本人会生活文化会発行
目次

 

  

 


   その8

日独開戦(4)ーー まとめ

 2013年 1月

                  

                 日独開戦(4) ーー (まとめ)

 青島における日独戦役は、実質的に僅か10日の戦闘で独逸軍の降伏により終結した。独逸が資力と技術の粋を集めて構築した要塞群が、なぜそれだけの短時日で市街戦もなく日本軍の攻撃に敗れたのか、これを解析した論文は実は見当たらなかった。日本軍が今日一部で言われるように非情で野蛮な軍隊であったとすれば、青島市街を徹底的に破壊することは決して困難ではなかったはずだ。

  だが、独逸が本国以上にすばらしい計画で構築した青島の都市景観はその白砂青松と共に、ほとんど破壊されることなく後世に残された。それはなぜだろうか。これに答える学者の論文は全くない。

  余生の短い吾々兄弟二人は、美しい青島を戦火の対象にしなかった、100年前に戦った日独両軍司令官の決断を多としつつ、彼らの考えを推しはかって見ることとする。もとより、これからの記述は学術的には全く無価値な推論にしか過ぎないが、老残者の繰り言として寛大にご覧頂くことを切に願うのみである。

1.独逸軍司令官 ヴァルデック総督の考えは?

青島に就任した歴代独逸総督は、その防衛方針として、中国本土からの攻撃を前提とせず、海上からの攻撃に備えるために堅固な砲台を整備してきた。
ところが第5代ヴァルデック総督は、在任期間中に第1次世界大戦が勃発したので、日英同盟によって日本が独逸に宣戦布告することを考慮して、急遽青島の後背部に5カ所の堡塁を設営し、内陸部からの日本の攻勢に備えた。(青島物語--第20話参照)
〈下線文字をクリックすると第20話に移動します。このページに戻るには、移動先画面ツールバーの戻るボタンをクリックして下さい。以下同じ。〉

だが、ヴァルデック総督は、5万人とも言われる日本軍が山東半島北部の竜口に上陸したことを知り、独逸防備軍の兵力がせいぜい5000人であること、また本国からの軍事救援は全く期待できないことを考えると、この戦役は独逸軍の敗北になることを最初から予想していたのに違いない。そこで、ヴァルデック総督は次の通り作戦を展開することとしたようだ。

① 日本軍の砲撃陣地構築を遅らせるために、独逸砲台から日本軍に対して徹底的に砲撃を加えること。
しかしながら、この作戦は独逸軍の失敗に終わり、独逸軍の砲撃による日本軍の人的被害は少なく、しかも日本軍は
強力な砲撃陣地の構築に成功した。(青島物語・続編--その6参照)
② 戦闘を停止し日本軍に降伏する日時を、日本軍が独逸軍の防衛戦を突破した時点とすること。
日本軍が独逸軍の防衛戦を突破し、イルチス砲台・ビスマルク砲台を占領したのは大正3年(1914)11月7日の払暁であった
が、独逸軍はその直後の7日午前6時半に気象台上に白旗を掲げ、無条件に日本軍に全面降伏した。
③ 独逸軍は、日本軍に降伏後青島における軍事施設・港湾施設・水道施設を日本軍が利用しないように、全て破壊すること。

・水道施設については、水源地ポンプ設備に爆薬が仕掛けられたが、これは日本軍の急襲によって未然に防止された。青島市内
の配水管系統は独逸軍によって破壊され、しかも配水管系統図まで破棄された。

                                                (図 8-1)大港入り口に座礁された汽船
   

・港湾施設は、造船所にあった大型起重機および浮きドックが独逸に
よって破壊された。港内の独・澳軍艦は自沈した。
また、大港の入り口には数隻の船舶が独逸軍によって座礁され、大港
の利用をしばらくの間全く不能にした。
[写真出典:日独戦史写真帖 偕行社発行]


・独逸軍が降伏したときに、戦闘能力を持っていた砲台は全て独逸軍
自身の手で一斉に爆破された。


                                                (図 8-2)独逸軍により破壊された太沽河鉄橋


・鉄道施設も独逸軍の破壊対象となった。日独交戦区域内にある太沽河
に架かっている鉄道橋は独逸軍によって破壊された。また、滄口駅近
くの短い架橋も独逸軍により破壊された。
[写真出典:日独戦役記念写真帖 三船写真館発行]



日本軍は本格戦闘を開始する以前から、無線通信および飛行機のビラまきに
よって、施設の破壊を停止するように独逸に申し入れたのだが、この申し入れ
は結果として全く無視された。

ただ、破壊された施設はいずれもが平時には不要であるかまたは修復可能なものである。それよりもヴァルデック総督が無益な流血の惨事を防ぎたいとする早期決断により、日本と独逸の間で青島市街戦が回避されたことは、青島を故郷として愛する吾々としては、大変に有り難いことであった。


2.日本軍 青島攻囲軍の砲撃作戦は?

日本青島攻囲軍には青島市街を砲撃する計画があったのだろうか、あるいは実際に青島市街に砲撃を加えたのだろうか?
独逸が日本に降伏した後、青島に入城した日本軍に同行した従軍写真家の写真を見ても、市内建造物に砲撃の弾痕を見いだせないのである。私(兄)は、日本軍は青島市街の攻撃を意図的に避けたと考えている。以下、その根拠を説明する。

① 青島市街の威嚇射撃?
参謀本部が編纂した「日独戦史」(上・下巻並びに付表・挿図などを合わせると約2000ページに及ぶ)によると、射撃の種類
は「破壊、制圧、威嚇」の3種類がある。この付表には、砲兵連隊別に日時別の発射弾数記録があり、10月31日の射撃記録では
青島市街に370発の威嚇射撃を行ったと記録されている。さらにその翌日11月1日、青島市街に452発の威嚇射撃が行われた。

                                          (図 8-3) 1912年当時の青島地図

この地図は1912年、独逸租借時代の青島市街図である。
赤線で囲った範囲は華人区で、その他のハッチ区域が独逸人
の住居・官庁・商業区域である。

下記番号は以下の文中で引用される建物の位置を示す。
① 独逸総督府      ② 膠澳裁判所
③ 市街十字路      ④ ハインリッヒホテル
⑤ 独逸総督学校

左上枠内の太線で示す縮尺は500メートルであるので、この
当時の青島の市街範囲は高々1,5Km平方と案外と狭い。ハッチ
の中の黒点は住宅を除く主要な建物を示している。
[地図出典:山東半島・青島案内記 冨山房 大正3年発行]

2日間で狭い青島市街に800発を超える砲弾が撃ち込まれれば、青島の道路・建物には相当の被害があるはずだが、日本軍青島
入城直後に撮影された主要建物・市街写真を見ても、射撃被害を示す写真は次の1枚を除いて全く見当たらなかった。

② 青島市内の射撃被害写真                      (図 8-4)屋根に被弾した膠澳裁判所
11月3日、独立攻城砲中隊は、膠州湾総督府庁、市街十字路
(青島路と広西路交差点か?)を砲撃したと記録されている。

唯一の建築物被弾写真は、総督府庁の右正面にある膠澳裁判所の
屋根に、日本軍の砲弾が当たったとして撮影されたもの。
本当に攻城砲の弾丸が当たったとすれば、建物の被害はこの程度
ではすまない。

[写真出典:日独戦役記念写真帖 三船写真館発行]




                                              (図 8-5)被弾痕跡のない膠澳総督府
   朝日新聞従軍記者大江素天氏の従軍記によれば、「総督府の屋根
には28cm榴弾が大きな穴を開けたまま炸裂しないで止まっていた」
とのこと。だが、写真では被弾の痕跡は見当たらない。簡単に補修
できたのであろう。なお、写真左下に見える膠澳裁判所の屋根には
この写真では損傷が特に見当たらない。上と同じ時期の写真である
から、これも簡単に補修できたのか。
[写真出典:日独戦役記念写真帖 三船写真館発行]

大江記者の従軍記によると「ハインリッヒホテルにも2・3発
当たっていた」のだそうだが、このホテルは十字路近くにあり、
日本軍の入場式写真(図 7-9 参照)で見る限り、背景に見える
ホテル建物に被害は認められない。たぶんこれも不発弾による
軽微な被害であったのだろう。

吾々兄弟が青島日本第2小学校に通学していた頃、校門の傍らに不発弾記念碑があった。この砲弾は日独戦役当時、旧独逸総督
学校(第2小学校の前身)の校庭内に撃ち込まれた日本軍の不発弾であるとの銘板が貼り付けてあった。旧独逸総督学校は市街
十字路から僅か200メートルほど離れた位置にあり、これは十字路を狙った威嚇射撃の流弾だったのであろう。


                                             (図 8-6)信号所建物被害



信号山上にある信号所は日本軍の砲撃で被害を受けた。この建物は
軍事施設で、被害状況は膠澳裁判所(図 8-4)と比較すると明らか
に異なり、建物が大きく損壊している。また建物内部は火災の跡で
あろうか、黒ずんでみえる。

[写真出典:日独戦役記念写真帖 三船写真館発行]





                                             (図 8-7)四方鉄道駅長舎被害


四方付近は日独戦役の激戦地域の一つであり、両軍の砲撃応酬が激し
い地域であった。この建物弾痕からわかるように、砲弾が建物を貫通
した後の爆発で、内部に火災が発生していることがよくわかる。
弾丸内部の火薬の有無で、建物被害は大きく異なるのだ。

[写真出典:日独戦役記念写真帖 三船写真館発行]






以上の写真から見る限り、戦闘地域と青島市街では砲撃被害にあまりにも差がありすぎる。日本攻囲軍は、果たして青島市街を破壊砲撃の対象にしていたのであろうか。

私(兄)の推論としては、日本国大本営または青島攻囲軍司令官は、戦闘の初期段階では青島市街に対する破壊砲撃を避け、威嚇砲撃は火薬無装填弾を少数発射することにしていたのではないかと思うのだ。それ以外に、青島市街の建物被害がほとんどなかったことを説明できる理由が見あたらない。
ただ、それでは参謀本部編集「日独戦史」の、2日間で800発の射撃という記録をどう説明したらよいのか。

私(兄)はさらに推論する。日独戦役の初期に青島市内の破壊砲撃を避けることとしたのは、日本国大本営ではなくて青島攻囲軍司令官の決定であったのだろうということだ。大本営の方針と射撃の現実の違いのつじつまを合わせるために、市内威嚇砲撃数を過大に報告したのではないかということだ。

今となれば、なぜ青島市街の射撃被害が殆どなかったのか、その理由を探るすべもない。それはどうでもよいこかもしれない。
だがたぶん、日本軍が青島市街の砲撃を火薬無装填弾による少量の「威嚇射撃」にとどめ、独逸軍が白旗を掲げると直ちに戦闘を停止したたことが、「麗しい青島」が後世に存続したことに大きく寄与したのだろう。
日本軍によるそれらの決断は、青島を故郷として愛する吾々には有り難いことであった。


3.日独戦役後の青島在住独逸民間人の処遇

大正3年(1914)11月7日、日本軍は青島独逸軍に対して勝利をおさめ、11月16日、青島路と広西路の十字路において日本軍と英国軍は戦勝入城式を行い、ここに青島は日本の管理下に入ったのである。

この日独戦役において、日本軍は独逸軍に対して非戦闘員の青島からの避難を勧告したのだが、実は、独逸民間人は婦女子2名が天津へ避難した以外は、全員が青島にとどまった。だが青島が日本軍の管理下に入って、それらの独逸民間人(約520名)は日本軍により戦時捕虜として身柄拘束されたのではなく、各人が原則として自分の住居で生活し且つこれまでの仕事を続けることを認められた。

注:大正3年11月19日、軍令第1号第3条において ”占領地に現住する住民は各旧態に復しその業務に従事すべし” と定めている。
この主旨は、おそらく軍令公布以前においてすでに日本・独逸間で了解されていたのであろう。

                                                (図 8-8)日本軍入城式を参観する独逸民間人

独逸民間人は一般人として、背景に見られる現地華人と共に、日本軍の
青島入城式を日本軍の監視もなく参観していた。

[写真出典:青島戦記 大阪朝日新聞社発行]

朝日新聞大江記者の従軍記に次のような1節がある。
大港の港務所に近いハーフェンホテルが開業していたから入ってみた。
麦酒樽のように太い独逸の老人と現代的の独逸の若い女二人とがいた。
天津に行くはずの独逸の衛生部員等がだいぶ集まって呑気に麦酒を飲ん
だりカルタをとったりしていた。禿頭の老人をとらえて話してみたが、
一向に敵愾心は持っていない。珈琲を飲んで出掛けると老人自ら赤酒を
抜いて自分に酌んで乾杯をして愉快そうに笑った。
なんだか変な気がした。
この記述は、大江記者が日本軍の戦勝入城式当日の11月16日に書いたものであり、日本軍の独逸民間人への処遇の実情がうかがわれる。


独逸軍人は日本に対してどのような感情を持っていたのであろうか。大江記者は、この点を独逸将校に尋ねてみたところ、次のような回答を得た。(従軍記:11月13日付)
ヴァルデック総督は今回の日独開戦を全く英国の尻押しと思っているので、日本に対してはあまり悪い感情を持っておられない。
我々も同様である。

一方で、日本軍将校はどのような気概で戦ったのか。大阪朝日新聞「青島戦記」は次のように述べている。
  一将校は余に語って曰く「20年前の創痍のために我らは独逸と戦ったのである。独逸はロシア、フランスと聯盟共謀して日本をして旅順を清国に強制的に還付せしめたに拘わらず、1897年自ら青島を占有したのは、日本人の常に忍ぶ能わざる屈辱としたのであった。」
いわゆる三国干渉による屈辱に対して「臥薪嘗胆」を唱え屈辱払拭の機会を待ち、日独戦役で名誉を回復したとするのが日本軍将校の考えで、日独間にこの戦役に対する考えの相違を見ることができるといえよう。


独逸軍捕虜は、日本軍が青島を攻略した後、大正3年11月13日にヴァルデック総督が捕虜としてまず日本に移送された。その後、約5000人の独逸兵が捕虜として日本に送られ、第1次世界大戦の講和条約(ヴェルサイユ条約)が締結された大正8年末まで、日本各地で収容所生活を送っていた。独逸人捕虜を迎えた日本各地は、市民レベルで独逸人軍人を温かく迎え交流が行われた。

大正10年独逸から独逸兵捕虜収容所のあった名古屋市長宛に、独逸人軍人に対して市民が友好的に且つ温情ある対応をしてくれたことについて、感謝状と鉄十字勲章が贈られた。

《 独逸人捕虜の実像は、高知大学名誉教授瀬戸武彦氏がその著書「青島から来た兵士たち」の中で詳細に述べておられるので、
関心をお持ちの方は是非ご覧頂きたい。》

日本は名誉回復のために青島で独逸と戦った。だが、日本人は独逸兵捕虜に対して憎しみを抱かず、隣人として暖かく接した。日本人の残虐さを訴える一部の国があるが、我々日本人は「敵に対しても憎しみを抱かない」ことを改めて認識したい。

《 日独開戦編はこれで終わり 》


  -- ひとり言 --

日本は青島で独逸と戦い勝利を得た。だが、その戦場が中国本土であったことを忘れることはできない。日本と中国の間における不和の一因が、この日独戦役とその外交処理にあったことも忘れてはいけない。折に触れて、そのことも取り上げることとする。


 



  この物語をご覧頂いた方々の中で、我々の発表に誤りがあると思われたり、あるいは追加したい事項があるとお考えの場合には、どうか我々宛にメールをお送り頂きたい。お送り頂いた内容を、ご同意が頂ける場合には、原文のまま発表させて頂くつもりである。

 

 




 
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