青島日本人会  
 
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*-* チンタオってこんなとこ *-*

 
青島の歴史についておさらい


 1891年、時の清朝は、国防上の理由から、それまで一漁村に過ぎなかった青島に桟橋など軍事施設を建設、兵を駐屯させたのが青島の発展の始まりとされています。それ以前は、現在の市の中心部より郊外の即墨市、膠州、膠南などのほうが栄えていました。
 青島市の概要こうして始まった青島の歴史ですが、1898年ドイツの租借地になり、ドイツは青島を中心とする膠州湾一帯を99年間の期限で租借、軍港、鉄道、鉱山開発などを展開、山東半島一帯に影響力を行使しました。と同時にここを模範的な植民地とすべく、ドイツ風の建築や上下水道の整備など、都市建設を行いました。青島のシンボルになっている青島ビールも1903年、ドイツ統治下で誕生しました。
 その後第一次世界大戦が勃発するや、1914年、当時、日英同盟を結んでいた日本は、連合国の一員としてドイツに宣戦布告、青島攻略に乗り出します。1ヶ月余りの先頭の末、青島駐屯のドイツ軍を降伏させ、青島を支配下に置き、1919年のベルサイユ条約により青島におけるドイツの権益を引き継ぐことが認められます。ドイツの降伏により青島ビールも日本資本下(大日本ビール)に置かれることとなります。
 この決定に反発した中国の民衆は1919年5月4日、北京の天安門で大規模な抗議活動を起こし、山東省における日本の権益の中国への返還を要求、これが日本製品排斥運動や半日運動につながります。5月4日に発生したということで
「五四運動」と呼ばれます。青島市で発生した訳ではありませんが、当時のスローガンは「还我青岛!(青島を返せ!)」であったそうです。現在の青島市庁舎前の「五四広場」はこの運動を記念して名付けられています。
 やがて日本は1922年に青島を中国(北洋政府)に返還しますが、その後も青島に影響を維持し続けます。1938年、日中戦争が勃発すると、日本は再び青島を占領下に置きます。終戦前は4万人を超える日本人が青島に住んでおり、総領事館もあり、日本人学校も複数設置されていました。俳優の三国連太郎、中村八大なども戦前青島に住んでいました。
 1945年、日本の敗戦とともに、青島は国民党政府の支配下に入ります。当時、青島には米軍西太平洋艦隊の司令部が置かれ、国民党主席の蒋介石が度々青島八大関の「花石楼」に滞在していたそうです。
 1949年、人民解放軍が青島に入城して青島が「解放」、改革開放政策の導入に伴い、1984年に開放都市となりました。
 2008年には北京オリンピック・ヨット競技の会場になっています。

 

(青島の統計)
●面積:11,282k㎡ (市区 3,257k㎡)
●行政区画
  6区(市南区、市北区、李滄区、崂山区、城陽区、黄島区)
  4市(膠州市、即墨市、平度市、莱西市)
●人口:896.4万人 (市区481.4万人)
●2013年のGDP:8,000.6億元 1人あたりGDP:約14,453ドル(89,797元)
*上記の数字は2013年末のものです。出典は青島市統計局3月発表の青島市統計公報です。人口は戸籍人口ではなく常住人口です。1人あたりGDPのドル表記は2014年4月10日時点でのレートに基づいています。